田助浦

田助港の歴史は古く。安土桃山時代にさかのぼります。イギリス商館の日記には、薩摩船が田助港に入港し物資を届けた記録が残っております。現在の港の礎を築いたのは、法印松浦鎮信が、小値賀島、壱岐、呼子などから約50戸を移住させ、臨済宗妙心寺派の天桂寺を創設し、田助の管理を任せたのが約400年前のことです。当時の田助港は、砂浜で、大きな船の出入りは厳しかったため、海岸線を埋め立て、石垣を築き、今日の埠頭のように整備したのが田助港の始まりである。その後、江戸後期から田助港は日本各地の船が風待ち、潮待ち港として繁栄を迎える。 全国のハイヤ節のルーツとされる田助ハイヤ節は、おそらく江戸中期以降に生まれたものだと思われる。幕末の頃、吉田松蔭、勝海舟もこの田助を訪れている。最盛期には遊女屋30軒、遊女120人を数え、毎晩不夜城の港とたとえられた。幕末、薩長同盟後、志士達は、この田助で、討幕の密議を重ねた。西郷、高杉、桂、龍馬など幕末オールスターが田助を舞台に、新しい日本を語っていたのである。田助港の繁栄は昭和の初期まで続いたが、船の大型化、帆船から機械船へ時代が変わっていくとともに、衰退していくことになる。今は、漁村となっているが、田助の港を歩いていると、通りのあちらこちらから、にぎやかな三味線の音色が流れ、ハイヤ節が聞こえてくるような気がする。平戸藩は、当時来島した客人は、必ずと言っていいほど、白岳と田助に案内しているようである。即ち、当時の平戸観光の目玉だったといえる。

町割

田助のまちは、港を取り囲むように三つの町名に分かれている。四軒屋、中町、迎町で、海に向って見て右手が四軒屋、中央が中町、左手が迎町である。
四軒屋とは、当時の遊郭の名前(紙屋,田中屋,鶴屋,松田屋)のことで、この四軒がこの地域にあったことから呼ばれていたようだ。中町、迎町にも遊郭、船宿、飲み屋、廻船問屋が並んでいた。

濱尾神社

濱尾神社は田助地区の氏神として祀られている。御祭神は日本の総産土神である三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮の御祭神で天照大神の男親神である伊邪那岐大神、八坂神社の御祭神、天照大伸の弟神で須佐之大神をおまつりしている。

ハゲ島

田助港の入口にある小島で、名前の由来は文字通り木が生えなくて岩山だったのだろう。西郷や高杉らは、昼間釣りと称して渡り、倒幕の話をしていたと伝わっている。

作江伊之助記念碑

作江伊之助は、ここ田助出身で昭和7年(1932)に起こった上海事変で活躍した「肉弾三勇士」の一人。碑文は陸軍大将植田謙吉の揮毫によるもの。

角屋(すみや)

角屋の主人多々良孝平は勤皇の志が高く、薩摩、長州の志士達と交流があった。廻船問屋を営み、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作、大隈重信そして坂本竜馬とも親交が深かったと云われる。明治維新になり、桂らが多々良孝平を東京に招くべく使者を田助に送ったが、使者が到着する1週間前に他界していた。現在の建物は約100年前宿屋として建てられた。窓は建設当時のものだが、幾多の台風にもガラスが割れたことは一度もないらしい。

天桂寺

天桂寺は臨済宗妙心寺派の禅寺でもと天祥寺といい元禄9年(1696)五代藩主松浦棟(たかし)のとき天桂寺と改められた。現在の建物は160年前のもので、北海道の松浦武四郎も1年あまりここで修行した。境内には、田助出身で、昭和7年(1932)に起こった上海事変で活躍した「肉弾三勇士」の一人、作江伊之助の墓や、昭和7年3月にこの地を訪れた俳人山頭火が詠んだ「弔旗へんぽんとしてうららか」の歌碑がある。